北村周一のブログ《フェンスぎりぎり》

フラッグ《フェンスぎりぎり》展へようこそ。現代美術紹介のコーナーです。とりわけ絵画における抽象力のリアルについて思考を巡らしたい。またはコーギーはお好き?

週一集その六 ±0、でも

±0、でも

単純さを急ぐあまり、奥行きを失いつつあるのか。

やっとこさ手に入れた単純さはそれゆえ、やっとこさ立っているにすぎないくらいの存在感しかないのだろうか。

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またまた、週一集のつづき。

±0。+100と-100、+10000と-10000。結果的に±0でも、その道程はまちまち、ひとくちにバランスをとるといってもふりこの振れ方は各々違う。大きく振れたときにまた大きな戻りを生ずる(健全な自浄能力があったものと仮定して)。

しかし手のうちようが幾分速かった場合、核心に迫る問題に届かぬままもとの鞘におさまってしまうことだってある。病は病として、あやまちはあやまちとして「かたち」をみせておかないと人は納得しない。

この先に、極めて危険な領域があり、それをいち早く察知した者が回避させる。のちに、この先に「それ」があったのだ、といってみたとしよう。すでに平穏な状態にあれば、コトはなかったこととして認知されるだろう。

「スーパー・フラット」がキー・ワードとして巷を徘徊している。日本の美術がフラットなのは今にはじまったことではない。思いつく限りの絵を想像してみるがよい。どれもみな平板である。日本人の顔や表情、言語のあり方に起因するといってみても詮無いことだ。もともとフラットだったのだ。

では一体何と較べて???????????????????????

思うにフラットであればこそ、大きな事件を嘱望することになる。波風を立てないでいると、大きな波風に巻き込まれる。むしろふりこが振り切れるくらいの大きな事件を期待していたのだともいえる。

では誰が期待したか。みんなが、である。事後、コトを忘れたかのごとくふたたびみんな、フラットに戻る。

「もの派(1970年前後の日本の概念芸術の一分野)」は、欧米の美術の文脈では、帰還不能な特攻隊と認識されたが、しかし「史」としては十二分に記録としてのこった。ゆえに美術史として再表現可能となり、以後何度も再制作されている。

いささか強引だけれど、「もの派」と「天皇制」はよく似ていると僕はおもう。

結論を急いではならないが、ここで3つのポイントを再確認したい。迷いのない単純な表現性、複雑な(ひねくれた)構造、ストレートな攻撃力。これら3点は、それぞれ、捨てる、拘る、ふだんは気づかずにいることを指し示すだけ、とも連鎖する。したがって、たとえ他にできることがあっても、ひとつのことに徹頭徹尾いれこんで、鍛え上げ認知させることが肝要であろう。

±0、でもポジティヴな方向性をみいだしたい。自然に物事ができあがったりこわれたりするのではないのだから。(20009月)