北村周一のブログ《フェンスぎりぎり》

フラッグ《フェンスぎりぎり》展へようこそ。現代美術紹介のコーナーです。とりわけ絵画における抽象力のリアルについて思考を巡らしたい。またはコーギーはお好き?

2017-06-01から1ヶ月間の記事一覧

墓守はふかき緑とみてあれば家また家のいきおうばかり

八百六十三日目。 一年の半分が終わる。ゆっくりと先へ進もう。 墓守はふかき緑とみてあれば家また家のいきおうばかり

愛煙家たちが手招く二次会の席はあまねくけむたそうなり

八百六十二日目。 都内に入ると、駅前は殊のほかにぎやかだった。選挙戦も中盤なのだろう。 愛煙家たちが手招く二次会の席はあまねくけむたそうなり

六月の画廊のまどをそめいたる庭の草ぐさ その庭もなし

八百六十一日目。 梅雨らしい一日となりそう。雨傘必需。 六月の画廊のまどをそめいたる庭の草ぐさ その庭もなし

夕闇を背にしてきみが眺めていたあの六月の庭はもうない

八百六十日目。 湿度の高い一日。植物はよろこぶ。 夕闇を背にしてきみが眺めていたあの六月の庭はもうない

六月の庭の片隅ぽつねんときみは佇ちおり夕暮れを連れて

八百五十九日目。 小学校は、きょうがプール開き。梅雨の中休み。 六月の庭の片隅ぽつねんときみは佇ちおり夕暮れを連れて

六月のまなこつむればたちまちに白き光となるまどの外

八百五十八日目。 非常口の一歩手前にようこその題につられて絵を見るひとも 六月のまなこつむればたちまちに白き光となるまどの外

群れることに不慣れなる子が父と行く水族館は声なき世界

八百五十七日目。 子どものからだの七割は水分なのだ。 群れることに不慣れなる子が父と行く水族館は声なき世界

雨漏りもこのアトリエの一部なりとさとりき 梅雨のあらしのあとで

八百五十六日目。 大嵐ののちの暑さは厳しい。 雨漏りもこのアトリエの一部なりとさとりき 梅雨のあらしのあとで

猛々しき雨風午後を吹き荒れて庭に転がる蜂の巣ひとつ

八百五十五日目。 昨日、大量の雨が降りました。風も凄かった。局地的猛烈な雨。 猛々しき雨風午後を吹き荒れて庭に転がる蜂の巣ひとつ

ひととなりが絵にも配置にもあらわれて見た目以上に見せたきこころ

八百五十四日目。 全体が見渡せる場所を求めて。 ひととなりが絵にも配置にもあらわれて見た目以上に見せたきこころ

木々の枝を払いつつわが浸るなり 庭のクチナシいまが満開

八百五十三日目。 今年は、梔子がよく咲いた。庭の手入れはまだ終わらない。 木々の枝を払いつつわが浸るなり 庭のクチナシいまが満開

なき友のその妻にして雨の中をほがらほがらにあゆみゆく脚

八百五十二日目。 椅子を置くスペースの余裕があればよかった、という意見が多かった。 なき友のその妻にして雨の中をほがらほがらにあゆみゆく脚

幾たびも死者をねむらせかぎりなく白にちかづく日の没りの黄

八百五十一日目。 黄色と白の対比によるフラッグ、右肩下がり。 幾たびも死者をねむらせかぎりなく白にちかづく日の没りの黄

あさいちばん露天湯につかり鶯の声にききいることばは要らず

八百五十日目。 ゆっくりと、えのぐの白を堪能する余裕が欲しい。 あさいちばん露天湯につかり鶯の声にききいることばは要らず

憂うべき何事もなききょうのひとひ梅雨入りまえの伊東へ来てり

八百四十九日目。 みみときわ、または逃げる韻を踏む日々、空耳。 憂うべき何事もなききょうのひとひ梅雨入りまえの伊東へ来てり

花菖蒲紫陽花のはなの咲きそろう小田原城址公園にあそぶ

八百四十八日目。 手入れが大変だと思います。 花菖蒲紫陽花のはなの咲きそろう小田原城址公園にあそぶ

冬パジャマ春パジャマをへて夏パジャマへ移行せしのち梅雨寒は来ぬ

八百四十七日目。 ニッチな季節。ニッチには落ち着くという意味もあるが。 冬パジャマ春パジャマをへて夏パジャマへ移行せしのち梅雨寒は来ぬ

睡眠は五時間取れば事足りる のだろうか中吊りの説を怪しむ

八百四十六日目。 梅雨寒の一日。 睡眠は五時間取れば事足りる のだろうか中吊りの説を怪しむ

六十を過ぎて漸う腑に落ちたり やまいのすべての根源は気質

八百四十五日目。 ぼうぼうの庭の剪定をはじめる。すずしいうちに。 六十を過ぎて漸う腑に落ちたり やまいのすべての根源は気質

病めるわが脳の一部に父がいてウニを舐めおり生湯葉の上の

八百四十四日目。 生湯葉も、ウニもむろん石川県産。 病めるわが脳の一部に父がいてウニを舐めおり生湯葉の上の

円陣を組み直すべきか 見よながれわろき排水口は毛だらけ

八百四十三日目。 物の汚れが、目立ち始める時期でもある。 円陣を組み直すべきか 見よながれわろき排水口は毛だらけ

感性がずんずんとぼくを押しのけて見たことのない絵の前に立たす

八百四十二日目。 吉祥寺美術館での、一歩手前展の絵を見てくれた人の感想を読んで、思ったこと。 感性がずんずんとぼくを押しのけて見たことのない絵の前に立たす

短歌には出口が多いと嘆くまえに独語は電子辞書に替えたし

八百四十一日目。 ことばが、先にあるわけではないが。 短歌には出口が多いと嘆くまえに独語は電子辞書に替えたし

壁ぎわの隙間よりみえる絵のありてうごく影あり絵をみる人の

八百四十日目。 さまざまな隙間へのいざない。 壁ぎわの隙間よりみえる絵のありてうごく影あり絵をみる人の

吉祥寺美術館から海までの距離を思(も)いつつ青い絵をみる

八百三十九日目。 波打ち際のように見えたのでしょうか。 吉祥寺美術館から海までの距離を思(も)いつつ青い絵をみる

『秋空』の一歩手前に白砂の絵が立ちならぶ 波音さえも

八百三十八日目。 吉祥寺美術館:短歌クラブのみなさま、どうもありがとう。本歌取りにて。 『秋空』の一歩手前に白砂の絵が立ちならぶ 波音さえも

美術館巡りが趣味というひとのひとふでがきのようなつぶやき

八百三十七日目。 少なからず、だれにでも、青の時代というものがあるように思う。 美術館巡りが趣味というひとのひとふでがきのようなつぶやき

段階的明暗技法は身につかず気づけば嚏(くさめ)止まらぬ五月

八百三十六日目。 梅雨入り前の、穏やかな六月。 段階的明暗技法は身につかず気づけば嚏(くさめ)止まらぬ五月

ハイデッガーに「見護り」という思考あり、車窓をよぎる躑躅また躑躅

八百三十五日目。 見護ることで、作品が作品として成り立つことを維持する。 ハイデッガーに「見護り」という思考あり、車窓をよぎる躑躅また躑躅

灰色には遠いけれど黒または白の鍵盤があやなすねいろの微妙

八百三十四日目。 もしかしたら、灰色の鍵盤というものも、あるのかもしれないが。 灰色には遠いけれど黒または白の鍵盤があやなすねいろの微妙