北村周一のブログ《フェンスぎりぎり》

フラッグ《フェンスぎりぎり》展へようこそ。現代美術紹介のコーナーです。とりわけ絵画における抽象力のリアルについて思考を巡らしたい。またはコーギーはお好き?

2017-10-01から1ヶ月間の記事一覧

この歳になりてようよう腑に落ちたり病のすべての根源は眠り

九百八十六日目。 十月が終わる。明るい光景の一コマ。

満員の車内にひとり少女子(おとめご)は眠たそうなり鼻唄がきこゆ

九百八十五日目。 一家団欒絵図。

ひとひらの紙のかるさをてのひらにおぼえつつわが投票終うる

九百八十四日目。 睡眠時間一時間でもひとは生きていけるのだろうか。

うつり気なる木々がざわめく、駅名になり損ねたるみどりの木々が

九百八十三日目。 六本木、五本木、千駄木。みどりいろは希望の証しか。それみたことか。

ゆうべというときの背後にわが記憶滑らすごとも四駆走らす

九百八十二日目。 あきのゆうぐれ。4WDは足腰が強い。

雨降れば雨樋のそのさきざきに溜まる雨水の小暗き色も

九百八十一日目。 津久井湖湖畔の雑木林。

降る雨はひくきにながれやすければ寄する雨あり汚れしままに

九百八十日目。 野窓、裏窓。晴れますように。うすい、雨水、春の季語でもあるけれど。

画面より遠く隔たる立ち位置より画家のくりだす絵筆の自在

九百七十九日目。 秋らしい秋の日を待ちながら。

橋の上に画家のかげあり夕まぐれ川のながれを夏ゆくとだけ

九百七十八日目。 画家中西夏之氏が他界してはや一年が経つ。

食卓の木目のなかに棲むという雄ライオンの寝顔かわゆし

九百七十七日目。 痕跡から、もののかたちを類推する能力、またはレアリティ。

それぞれの庭のかたすみ吹き溜まり目にはみえねば掃くひともなし

九百七十六日目。 超大型台風接近中。それでも外出する人はいる。

悩み多き脳と心のはたらきを繋ぎとめいる首の根重し

九百七十五日目。 首はもともと不安定な存在なのだろうが、うしろ首よ。

示すでも逸らすでもなくさらさらと砂は流れるその道をゆく

九百七十四日目。 こんなに寒い十月は初めてかもしれない。

それとなくせがまれている。わが子らの子どもが使うランドセル、ほか

九百七十三日目。 楽しき我が家を維持するための労を惜しんではならないのかも。

大うその文字がはためくスシローののぼりに風が吹いて~大とろ

九百七十二日目。 暖房を入れなければならないほどの寒さである。表裏が一体とは限らない。

見渡せばかげもかたちもほどほどに薄れゆくのみ鏡よ鏡

九百七十一日目。 これなんにみえるかな?なまえつけてみよう!

人差し指もて余すがにみずからの歯茎撫でゆく男の孤独

九百七十日目。 雨の日が続く。46年ぶりの寒さとは、1971年の10月の今頃、何をしていたのだろうか。

二分の一浮かぶ月みる朝にして眠りの質を問われいるらし

九百六十九日目。 半月と、惰眠の関係についてかんがえてみる。

年取るとはイタミに堪えることなりと茶髪のサイコロジストが謂う

九百六十八日目。 精神科医の言うことは、一応聞いておくことにする。

ろくでもないゆめと知りつつ夜ごとに見る夢は切なしクスリ効かねば

九百六十七日目。 あしたからぐっと寒くなる。十月の長雨。

わだかまりありしごとくに演説のクルマがわきを見ながら過ぎぬ

九百六十六日目。 蟠りとは、こころの中でつかえている不満・不信などの感情をいう。

三殿台遺跡の辺りマンションは様々ありて要塞のごとし

九百六十五日目。 横浜は坂道が多いけれど。

原子とは万物の根源にして原子力とはゆめのはじまり

九百六十四日目。 原子ならびに原子の力と、原子力とは、似ているようで非なる内容を持つ。

七いろに老眼鏡はかげ落とし西日射すなか鋸(のこ)引くわれは

九百六十三日目。 15本のアカメの剪定に追われる日々。

こきざみに木々のたましい抜けてゆき空が頭のうえにひろがる

九百六十二日目。 裏庭のアカメガシワのひと夏終わる。

勢いよく広がる蔓系植物の根は浅ければ抜くに容易し

九百六十一日目。 庭の整理に苦心している。 アクロバット・右

安定を求めやまざる絵ごころというものありてわれは疑う

九百六十日目。 アクロバット・左 2017

セザンヌの〈首吊りの家〉の厚塗りがのこる瞼に夜を重ねる

九百五十九日目。 いつか、壁に掛けてやろうと思う、かげふみ。 S&T photoKagefumi 2017

置き去りにされたメールが和蘭のひかりの粒を夢みる九月

九百五十八日目。 それぞれの繋ぎ目が大事。 一ダースの月、九月。

遮断機をくぐりしきみが鉄道の錆びのにおいに噎せる十月

九百五十七日目。 一ダースの月。十月。