北村周一のブログ《フェンスぎりぎり》

フラッグ《フェンスぎりぎり》展へようこそ。現代美術紹介のコーナーです。とりわけ絵画における抽象力のリアルについて思考を巡らしたい。またはコーギーはお好き?

週一集その五 個人の自由

個人の自由

きょうは、とってもタバコが吸いたい。

まず、タバコを吸いたいと欲する。欲したおもいが、体内を巡る。この欲求はなかなか消えようとしない。タバコとは、単価の安い欲求解消の道具である。

火をつけて吸う。頭や咽が痛くとも、隣人に迷惑だとわかっていても、灰も燃えカスも危険だと知りつつも、なにより喫煙タイムは無駄な時間だとわかっていても、一本のタバコを吸いおえて、一気にもみ消すことの快感、この瞬時に消せるところが素晴らしい。道具たる所以である。

 

欲求が芽生え,その欲求を消す。この数分の快楽は極めて効果が高いために、また大きな代償を払うことにもなる。喫煙を個人の習慣や嗜好性とのみとらえ、禁煙を個人の意志力の強弱と結びつけるこの国では、世界を敵にまわす覚悟のある、タバコ農家と族政治家と企業人が今もなお健在であることを気づかせる。

個人の自由とは、この程度のものなのか。

習慣的喫煙者の禁煙は難しい。喫煙は二十歳になってから、と喫煙マナーが叫ばれれば叫ばれるほど、「高倉健」の孤高と反骨の姿は美しく力強くかがやく。こどもが親からの独立を宣言するかのごとき喫煙のはじまりは、企業によるイメージ広告の産物にすぎない。

数年後には、こどもは立派な喫煙者となりしかも最初のブランドにこだわる真面目なスモーカーに変身をとげる。

一方喫煙は、こどもだけでなくおとなにとってもデカダンをにおわせる。禁煙イコール健康指向イメージになじめないおとなは多い。200種類を越える有害化学物質を体内にとりこむことは、自己の意志であるとはいえ寿命を縮める姿勢はたしかに退廃的だ。しかし既成の価値・道徳に反する美を追い求めた芸術の傾向(辞林21)デカダンスと呼ぶもうひとつの意味ととらえてみるなら、喫煙スタイルはいかにも格好悪い。

今一本のタバコを止めることのできない者は、いや今一本のタバコはがまんしよう、がまんしたとしても次の一本、また次の一本の欲求を空振りにすることはできるかと想像すると、果てしない欲望の渦が身を囲み、この先いつかはその欲求に克てなくなるときが来ることに思いいたり、それなら今のがまんは何の役にも立たないではないか、ならばこの一本を吸うことにしよう・ ・ ・ ・ ・

思うに、これからの先のことに思いを巡らせることを中断してみたい。今ひとときのがまんですむからだ。きょう一日のがまんではなく、今一本の欲求が通りすぎてゆくのを待つこと。

かくなるひかえめでやや地味な決断は、いささか説得力を欠くように思われるけれど、個の本来の姿勢に鑑みれば、少なからず能動的に生きているとはいえまいか。(20008月)