北村周一のブログ《フェンスぎりぎり》

フラッグ《フェンスぎりぎり》展へようこそ。現代美術紹介のコーナーです。とりわけ絵画における抽象力のリアルについて思考を巡らしたい。またはコーギーはお好き?

2018-05-01から1ヶ月間の記事一覧

シラス漁のはじまりし伯父の家熱し 声から先に茹(う)で上がりたり

千百九十八日目。 甘くとろける生じらす 酢味噌で 初夏

改憲をうたう活字にからみあう安倍川という甘蜜のリアル

千百九十七日目。 安倍川餅 あべかわともいう 写真は相模川

平成のつぎにくるべき年号は それより西野ジャパーンを憂う

千百九十六日目。 遅速 明るい灰いろのための。

身に添わぬ荷物をほどきゆくごとく毛布のせいにしても眠れず

千百九十五日目。 シーツの色はむろん灰いろ。

目には見えぬものの繋がり解きほぐすごとし合図は三十一文字に

千百九十四日目。 昔和歌、今Twitter。

万が一の非常食にしてあのチキンラーメンたまに啜る悦楽

千百九十三日目。 美味しいというより、懐かしい味。むかしは、ピヨピヨラーメンともいった。純正にあらざれども。

前屈みになるときアゴが上がるときヒトからサルへ腰落とすとき

千百九十二日目。 年取るとひとは老いる。

洗っても洗っても色落ちしない血の色を目に焼き付けている

千百九十一日目。 四つのユーモレスクのうちの、三つ。

丸刈りのおとこのひとり父なれば白装束は病者のしるし

千百九十日目。 明るすぎる白あれば、暗すぎる白もあるならん。

他人の眼が気になるあなたのその声にきょうも応える日本のテレヴィ

千百八十九日目。 絵の前に垂直に立つこころざし。

あれもこれも駄目とばかりに言われ来し子どもが思うふつうの子ども

千百八十八日目。 四つのユーモレスク 左 黄色の厚み

ご近所に古くからある評判の喫茶パレットのぞきみるのみ

千百八十七日目。 dialogue 2014 縁側に見る ゆめのごとし

たるみつつ日々に老いゆくりんかくの線を絵の具に置き換えてみる

千百八十六日目。 秋の日のような五月のひとひ。

汗掻き掻きねむる幼子われにして理性の不安はとき遡る

千百八十五日目。 縁側に見る 理性の不安

にちようのだらだら坂に十字架が見え出すときの幼子われは

千百八十四日目。 点々の数をかぞえてみてください。ジンチョウゲ

手際よく顔剃り終えし早朝のおとこのすべてミラーに見てり

千百八十三日目。 かがみは何でも知っている。

目を潤ませ小三男児その母の背後より来る こどもの日なのに

千百八十二日目。 十日前のこどもの日のこと。

ドアノブに触れれば寒きゆめのはて ドアーの向こうがわにもノブは

千百八十一日目。 連句これにて終了、ふう。

夜半にしてともに堕ちゆく闇のなか ダムの水路の八重ざくら夢

千百八十日目。 ちなみに足袋は冬の季語なり。

てぶくろや片方ずつをふたり連れ ひとつの傘に雪ふるみちを

千百七十九日目。 春から冬へ舞い戻り。連句は時間を遡ってはいけないらしい。

うら若き祖母のしぐさや春のあめ 番傘をたたみ足袋ぬぐときの

千百七十八日目。 とおいきおく。山梨は萬屋酒蔵店内中庭。

「冬の旅」聴けずつめたき二月かな グループ展の初日を酔いぬ

千百七十七日目。 冬の旅 高橋悠治+波多野睦美 名古屋公演

みずからのちからでひとは眠りたい ノラとノラとが唸るあけぼの

千百七十六日目。 あともう少しで、似非三十六歌仙終了。

海のべのランチ忙しき春の日や カラス舞い降りハトが群れ飛び

千百七十五日目。 烏より怖い鳩の一群。

時計屋と通じ合うらし小鳥屋は おもいおもいにうごかす目玉

千百七十四日目。 草木の伸びがはやすぎて追いつかない。

老母連れ眼科のかえり春霞 長八美術館へも寄らな

千百七十三日目。 伊豆の長八美術館。建物に時代の流れを感じる。

しんじゅうみすいの美大教師は長閑なり 湖(うみ)のほとりに花束を提げて

千百七十二日目。 ほのぼのとこどもの日。

口を吐くけむり輪となるのどけさよ 冨士のすそのに墓まもるひと

千百七十一日目。 長閑。みどりの日。

親機鳴り子機が鳴りして春の昼 カネの無心をわが子のごとし

千百七十日目。 まだまだつづく、連句擬き。春の防犯キャンペーン。

行く春やセカチューファンは松崎へ やき場にのぼるけむりみたさに

千百六十九日目。 映画ではなく、テレビドラマのほうがおもしろかった、個人的には。