エスキース・・・・この言葉の意味を厳密に捉えようとしてみると、妙な気分になってくるのはなぜなのだろうか。まるで、不意打ちを喰らったような、軽い眩暈をおぼえてしまう。
きたるべき絵画の下描きとしてのエスキースなどえがいたことがないし、また見せるべきエスキースも手許にはない、とまでいいきってしまうことにもなぜか気後れがする。
助詞「の」の解釈はさまざまにあると思われるが、たとえばエスキースのための、あるいはエスキースによる、またはエスキースのなかの、さらにはエスキースへの、・・・・エスキースというように、言葉のとりようは脹らんでゆく。
なかんずく、ここではたえず直前のしごとが、そのあとにつくられるであろう作品の試作品となるような反復を前提にしている。したがって、道を踏み外さないかぎりは、到底完成にいたることはないともいえるのだけれど。
みずからがえがいたことすら忘れていた一枚の水彩画を、十数年後アトリエの片隅から引っ張り出し、分けありげに油彩画に置き換えて、すでに七年が経った。
その絵にフラッグと名付けたのは、もともとは長方形の旗が、風のかたちに靡きながら揺れているそのさまを、画面のなかの空間に見立てたからだった。
木の枝に引っかかったまま風にふるえている、糸の切れた破れ凧のようなもの、そんな風情に意味を託した。
やがてこれらフラッグの連作が、一見それらと何の関係もなかったかのようにえがかれている、「アカメ」シリーズ(二枚一組)へと繋がってゆくのだが、そう思っているのはたぶん作者だけかもしれない。
(PARFUM no.134 2005)